ひとりの魔女が処刑されようとしていた。
火吹き山の頂上にある処刑台は、灰色の煙が立ち上る火口に向かって組まれている。
まだ若い娘が両手を縛られたまま、背後から数人の兵士に槍で突き立てられながら、台の先端へ向かって歩かされていく。
進めば火口へ落ちることになるだろう。しかし、引き返せば兵士たちに突き殺されることは明白だった。
「おねがい、助けて。何かの間違いなのよ」
娘は何度もそう言った。しかし、返ってくる言葉は非情なものだった。
「黙れ、魔女め。魔獣を操ってこの国を混乱させた罪、エミトリ王子の命まで奪ったこと、あの世で悔いるがいい」
邪術を用い、忌まわしい魔獣を呼び出したこと。魔獣を操り、各地に災害を引き起こしたこと。そして、王家への反逆行為。それらが娘の罪だった。
「わたしはそんなことしない!」
悲痛の叫びは、しかし誰の耳にも響かなかった。
娘はふるえる足をゆっくりと進めていく。一歩ずつ、確実に火口が迫ってくる。
そしてついに、細長く伸びた処刑台の先端にたどり着いてしまった娘は、さすがにそれ以上進むことはできなかった。
思わず振り返った娘の目の前には、兵士たちが持つ槍の穂先が迫っていた。見ているだけで胸の動悸が激しくなるほどの、鋭い刃先が輝いている。
ひとつをかわそうとしても、すぐに別の槍にとらえられるだろう。それを逃れる手だては、火口に向かって飛び出すしかなかった。
しかし、それは確実な死を約束する行為である。
かなりの高さがあり、むき出しの岩肌には衝撃を和らげるようなものは見えない。
それにたとえ、落下による死を免れたとしても、ほんの少し寿命が延びる程度のことに思われた。
娘は迷ったが、その時間さえも、もはや与えられてはいなかった。
業を煮やしたかのように繰り出された槍が娘の肩をとらえ、血しぶきをあげた。思わず体を仰け反る娘。その足は、空中へ踏み出されていた。
痛みを感じる前に、助けを乞う声も出す間もないままに、景色が一変した。
娘の目に、空が映る。
雲ひとつない青空だった。耳をふるわす音を聞いて、それが風によるものか、それとも自分の悲鳴なのか分からなかった。長い一瞬のなかで娘は、逃れようのない死の訪れに怯えていた。
ふいに、娘の視界に影が差した。そして、何かに体を掴まれたのを感じた。
槍に刺された肩に鋭い熱さが走る。
悲鳴や怒号に混じった、うなり声のようなものを聞きながら、娘は意識を失った。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。カレリアは目を開いた。そこは、広い洞窟のような場所だった。
外からのものらしい日差しにまぶしさを感じて、目を細める。光は天井ちかくにある裂け目のような穴から差し込んでいた。
かすかな風が、頬をくすぐるように通り過ぎていく。
カレリアは、積んだ藁の上に寝かされていた。
起き上がろうとして、カレリアは苦痛に呻いた。そして、自分が処刑台から落とされたことを思い出して、体を震わせた。
死の国に来たのだろうか、と考えたときだった。
日の光が当たらない暗がりに、何か生き物の気配を感じたのである。
「誰?」
カレリアは声をかけてみたが、答えはなかった。
目をよくこらして見つめているうちに、その気配はゆっくりと近づいてきた。
それは巨大な生き物だった。
青みがかった緑の鱗がびっしりと覆う体。背中に折りたたまれたそれは、まぎれもなく翼だった。四本の足はどれも太く、その先にはかぎ爪が鈍く光っている。尾は長く伸び、暗がりの向こうへ溶け込んでいる。
そして、カレリアに近づけられた顔には、は虫類を思わせる目が赤く光り、口元には鋭い牙が覗いていた。流線型に並ぶ無数の角が、しかし、ただの爬虫類などではないことを示していた。
「ドラゴンッ!」
それは確かに、竜だった。神さえも滅ぼすとされる魔獣であることに間違いはなかった。
恐怖に駆られたカレリアが、転がるように逃げ出そうとする。肩に激痛が走ったが、今度はかまわなかった。しかし、長い時間眠っていたのか、思うように体を動かせず、はいつくばって逃げるのがやっとである。あるいは、腰が抜けていたのかも知れない。
そんな様子を見ていた竜が前足を伸ばして、カレリアの体をつかむ。再び死を意識した彼女は、ぎゅっと目をつむった。
それはどこか覚えのある感覚だった。そう、あの山の処刑台から落ちた後の……
ゆっくりと彼女を藁の上に戻して、竜の前足は彼女から離れていった。
カレリアは静かに目を開け、竜がそれ以上の動きを見せないことを感じると、強ばらせた体を解きほぐした。
自分の体に触れたとき、カレリアははじめて気がついた。
傷の手当てがしてあったのだ。
肩の傷だけではない。処刑が行われる前に受けた、ほとんど拷問のような尋問によってできた傷もだった。
膏薬らしきものが塗られて、包帯までされている。それは、きついところや緩いところがあって、おそろしく乱雑なものだった。しかし、これがあの大きなかぎ爪の芸当ならば、きっと精一杯、自分の体を気遣ってくれたのだろう、とカレリアは思った。
「ありがとう。あなたが助けてくれたのね。それなのに、怖がったりしてごめんなさい」
まさに死の淵から救ってくれたことに、カレリアは礼を述べた。
竜は何も答えなかったが、数回、まばたきをして返事をするような動きを見せた。
さらに、竜は伸ばしていた尾の先を寄せると、自らの爪でほんの少しだけ引っ掻いた。
小さな傷ではあったが、人間のものとは色合いの違う赤い血がしたたり落ちる。カレリアがどうしてよいかわからず戸惑っていると、竜は爪の先をうごかして、傷口と顔とを行き来させた。そして、カレリアの口元を指し示した。
「……血を、飲めということ?」
カレリアは知っていた。竜の血には魔力が宿っている、と。
嘘か本当かは分からないが、それを飲んだ者は、あらゆる病や怪我から癒される、ということである。しかし、ある者は竜の毒気にやられて命を落とすとも伝えていた。
ほんの短い間だけ迷ったカレリアは、竜を信じることにした。
竜の尾へ顔を近づける。血の匂いが鼻を刺激する。自分の体に塗られていたものと、同じ匂いであることに、カレリアは気づいた。
温かい液体が喉に流れ込む。極上の飲み物、というわけにはいかなかったが、不思議と体に染み渡っていくように感じていた。
口をぬぐったカレリアを見て、竜が彼女から離れようとした。
「まって。しっぽをこっちに見せて」
カレリアは、自分の体から一本の布をとると、それを竜の尾へ巻いた。高位の生物である竜に限ってそんなことはないだろうとは思うのだが、万が一、傷口から悪霊などが入って厄介な病気を引き起こしたりしないようにと考えたのである。
竜が優しく、カレリアに横になるように促す。
血の魔力か、怪我によるものか、カレリアはひどく疲れを感じていた。
藁束に身を預けて、近づけられた竜の鼻先を軽くなでながら、目を閉じる。
目を閉じるとすぐに、カレリアは心地よい眠りの中へ落ちていった。
その国には一匹の竜が住んでいた。
人々が空を見上げると、大きな翼を広げた竜の姿がそこにはあった。
晴れの日も、雨の日も、いつでも竜はそこにいた。
それはまるで、大空からこの国を見ているかのようだった。
竜はこの国に災いをもたらす魔獣だと言われている。その姿を現すたびに、きまって何か悪いことが起こっているからだ。
いつごろからいたのか、どこからやってきたのか、それを知るものはいない。
しかし、竜が人々の前に姿を見せるようになったのは、四年ほど前の出来事からだった。
王宮が襲撃されたのである。一部の建物が破壊され、飛び去っていく竜を何人もの兵たちが目撃していた。
民からも信頼されていた王子の姿が消え、そして、王と王妃が原因不明の病に倒れた。
王子は竜に食い殺され、王たちは毒の息を吹きかけられたのだと伝えられている。
それからたびたび、竜の姿は目撃される。
干ばつ、水害、山火事などが起こるたびに、必ずと言っていいほど竜は現れた。
その後、病に倒れた王、行方知れずとなった王子に代わって、それまで陰にいた宰相が権力を行使するようになっていた。
彼は、すべての元凶と思わしき竜を退治することを宣言し、民からの信頼を集めている。
誰も宰相の言葉を疑うものはいなかった。
竜がねぐらにしているのは、人里からは遠く離れた渓谷地帯にある洞窟だった。断崖や険しい地形が人の足を阻む。翼のある竜には関係はない。
洞窟は古い妖精たちが坑道を利用して居住していたものらしく、あちこちに手を加えたあとが見られた。
床はあるていど平らに削られていたし、天井や壁には照明を備え付けるための穴もあった。
朝出かけた竜が洞窟へ帰ってくると、そこに娘の姿はなかった。
竜は彼女が洞窟から去っていったのだろうかとも考えたのだが、怪我が治りきったわけではないし、もし治っていたとしても、ここへくるのと同様に人の足では帰ることもままならないはずだった。
外に出て探してみようと思い立ったとき、竜は水音を聞いた。一番奥の部屋から聞こえてくる。
竜は首を突き出して、中をのぞき込んだ。
そこには滝があり、川があって、どこからともなく流れてきて、またどこへともなく流れている。
それが自然によるものか、それとも妖精の手によるものかは分からなかったが、竜はいつもここから心地よい空気が吹き込んでくるのを知っていた。
はたして、娘はそこにいた。
川のそばに服を脱ぎ捨て、包帯も取り外し、水浴びをしていたのである。
一糸まとわぬ姿で滝に打たれている。肩の傷はふさがっていた。そればかりではなく、ここへ連れてきたときに見た他の傷も見えなかった。
火傷や切り傷、あざだらけだった娘の姿を思い出して、それが癒されていることに竜は安堵した。
気配に気づいた娘が振り返る。
それからやっと思い出したように、竜は首を引っ込めた。あわてていたために、天井に頭を打ってしまう。
それを見て娘はくすくすと笑った。
「おかしなドラゴンね。人間の女の裸が珍しいのかしら」
しばらくして、娘は水浴びを終えたらしく、竜のところへ戻ってきたようだった。
「とても素敵なところに住んでいるのね」
娘の言葉に振り返った竜は、再び目をそらすことになった。
濡れた髪を、脱いだ服を使って拭いていたからだ。何も身につけていなかった。
「す、すまない」
背中を向けた竜が思わず、うなり声に謝罪の言葉を乗せる。
「いいのよ、気にしないで。勝手に水浴びしてたのが悪かったんだしね」
カレリアは生乾きのまま服を着ながら、竜に笑いかけた。
そのことに竜は、ひどく驚いた。
考え込むように動きを止めて、カレリアをじっと見つめている。
そして竜が再び口を開いた。
「そなたは、私の話す言葉が分かるのか?」
人の言葉ではない。
喉の奥からわき出すような低いうなり声が、洞窟に静かに響く。それが、竜の話す言葉だ。普通の人間にはうまく聞き取ることもできないし、同じように話すこともできない。
しかし、カレリアは魔道の修行の一環として、竜語を学んでいる。
『話すことだってできるわ』
カレリアは竜の声を真似て言った。
「ほかにも巨人語や古代語だって勉強したのよ」
「そうか、今まで誰も私の言葉は通じない者だと思っていた。そなたがはじめてだ。この身で出会った者と話すことができたのは」
「今まで仲間はいなかったのかしら?」
「仲間……、竜の仲間か……。まだ出会ったことはないのだ」
しかしそれよりも、と竜がカレリアに向きなおる。
「そなたに尋ねたいことがあるのだが、いいかな?」
あらたまった雰囲気に、カレリアも竜の前に座り込む。
「ええ、いいわ」
「私は、そなたが魔女であることを知っている。民たちに魔法を……まじないを施していたことも知っている」
竜は一度、そこで言葉を区切った。言葉を選んでいるかのように、ゆっくりと質問を続ける。
「どうして、そなたが処刑されるようなことになったというのだ? 私にはそなたがそれほどの悪人には見えない」
カレリアはうつむいた。
「竜を、あなたを呼び出して災害を引き起こした……、あなたを使役して王子を殺害した……、両陛下を病に冒した……。そう言っていたわ。でもわたしには身に覚えがないわ」
そうだろうな、と竜は頷いた。それから少し間をおいてから、言った。
「すべてはベルガルド宰相の仕業なのだから」
竜の言葉に、カレリアは驚いていた。
宰相ベルガルド。彼が自分の処刑を命じていたことを、カレリアは知っていたからだ。
「宰相は、そなたと同じく魔道に踏み入れた者だ。……いや、同じとは言えないだろうな。彼は邪術の方面に精通していたようだったからな。邪悪な手段によって、この国を乗っ取ろうとしていたのだ」
病に倒れた王は彼のそういった一面を知らずに信頼しきっていた。
彼は危険な人物だ、と誰にも告げることもできなかった。
竜はそう付け加えた。
しかし、それで少しは納得することができた。カレリアの処刑は、つまり、彼女に罪をなすりつけるためだけに行われたのだ。
「さて。本当に聞きたいのは、ここからなのだが……、そなたは呪いを解くことはできるか? そう、たとえば呪いによる病を癒すことができるだろうか」
竜は、王の病が宰相の施した呪いによるものだと、言っているようだった。
少しの間があってから、カレリアは頭を振った。
「呪いは、呪いを施した者にしか解けないことが多いわ。その者が死んだらあるいは、解けるかも知れない……。でもそれも確かじゃないから……」
竜は、岩天井を見つめ、それから深いため息をついた。
「そうか。……いや、そうだろうなとは思っていた。残念だが……」
それでも少しは期待していたのだろう。竜は明らかに落胆した様子だった。
「……では、私はどうだろう? 私の呪いを解くことも、やはり無理なのだろうか」
しばらく天井へ向けていた首を再びカレリアに向けると、竜がさらに尋ねる。
その意味をくみ取れず、カレリアは一瞬、固まってしまう。
それを見て取った竜の目が、少しばかりいたずらっぽく光ったように感じた。
「私の名はエミトリ。呪いを受けてこのような姿をしているが、この国の王子だった者である」
「あ……」
カレリアはどこかへ消え去りたいと思った。
水浴びを見られたことを思い出したからだった。
「これは、かなり苦いものだな」
人間のような表情には及ばないまでも、精一杯顔をしかめた竜が言った。
数日がたって、カレリアの傷は癒え、すっかり元気になっていた。それからというもの、彼女はエミトリにかけられた呪いをとくために、あらゆる手だてを試しているのである。
呪い返しの儀式や合い言葉による解呪、それに先ほど竜の飲み下した魔女の霊薬である。
しかし、今のところどれも効果がないようだった。
「ごめんなさい。力不足で……」
「かまわんよ。それよりも少し休んだ方がいい。連日、魔法を使うのは大変だろう」
力なくうなだれるカレリアを気遣って竜が言った。
それからあらためて、人間に戻る気配がないことを確かめてから、竜は洞窟の入り口へ向かった。
「あ、今日も出かけるのね」
カレリアが霊薬を片付けながら、竜の背に声をかける。
毎日のように出かける竜について、カレリアは何も聞かない。聞かなくても、何となくわかるような気がしていた。
竜はカレリアにひとつ頷いてみせると、飛び立とうとした。しかし、それをやめて、カレリアの方に振り向いた。
「どうだろう? 気分転換に私の背に乗ってみないか?」
「いいの? 邪魔にならないかしら」
「そんな心配はいらない。それに、外の空気も吸わなければ、せっかく治った体も壊してしまうぞ」
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらうわ。……一度でいいから、空を飛んでみたいと思っていたの!」
カレリアは喜んで、竜の提案に乗った。
促されるままに、背にまたがるカレリア。さすがに失礼だろうと考えて、履き物は脱いである。
竜の背はゴツゴツとしていたが、広く、ちょっとくつろぐだけの余裕があった。
翼を動かされるとさすがに揺れたものの、振り落とされるほどではなかった。
竜の体がゆっくりと地面から浮かび上がっていく。突然、足下の安定感を失ったカレリアが、ぎゅっと竜の体をつかむ。
「ごめんなさい。痛くなかった?」
「大丈夫だ。しっかりつかまっていてくれ」
やがて、目線が洞窟の周辺に生えている木立よりも高くなる。振り返ると、いつの間にか、洞窟の入り口から離れていた。
谷にぽっかりと開いた暗がりが、少しずつ小さくなっていく。
そして、二人は空へ舞い上がっていった。
建物は小さく、人はもっと小さく見えた。
カレリアが投獄されていた城や、町の様子も手に取るようによくわかる。
町から離れて、視線を動かしていけば、緑の濃淡が綴る勾配が続いている。そのままたどっていくと、灰色の噴煙が立ち上る山が見える。カレリアが処刑されかけた、あの火吹き山だった。
あのときに見た青い空を思い出して、カレリアは顔を上げた。
こんなにも高いところを飛んでいるのに、まだ空は遠くに広がっている。不思議な感覚にとらわれて、うっかり手を離しそうになって、あわてて力を込めなおした。
竜の背にしがみついていると、まるで自分自身の力で飛んでいるようだ、とカレリアは思った。
最初は、ぐんぐんと迫っては遠ざかっていく景色について行けず、おそろしさを感じていた。しかしそのうちに、竜と話をするくらいの余裕をもつことができた。
「ねえ、エミトリ」
カレリアは、竜をそう呼ぶ。彼の正体を知ってから、はじめのうちは殿下と呼び、言葉遣いも改めていたのだが、竜の方からそれを辞退したのである。
「今は、ただの魔獣に過ぎぬ。そのような態度は、私が人間に戻ったときにでも使ってくれ」
竜はそう言っていた。カレリアも素直にそれに応じている。
しかし、カレリアは竜が、自分はもう人間には戻ることはできないだろう、と考えているような気がしてならなかった。
「わたしね。エミトリが、宰相に召喚された竜だと思っていたのよ」
「なるほどな。だが似たようなものかも知れないな。ベルガルドの呪いの術によって、こうなってしまったのだから」
竜は目を伏せ、そのときのことを思い出すように言った。
それは、真夜中のことだった。
その日の夜は、なかなか寝付けずにいた。耳元で何者かがささやくような声が聞こえていたからだ。
起きてみても誰もいない。不気味ではあったが、風か何かの音を、錯覚したのだろうと考えていた。
やがて、声は突然に途切れた。
そのとたん、体がどうしようもないほどに熱くなったかと思うと、ふくれあがってきたのである。皮膚には鱗が浮かび上がってくる。骨が変形していく音と激痛が体中に響き渡っていた。
悲鳴を上げようにも、うまくいかなかった。喉の奥を空気が通り過ぎていくだけだった。
そして、またあの声が聞こえてきたのである。今度は、はっきりと聞こえていた。
気がつけば、そばに誰かが立っていた。それが、勝ち誇ったように、薄ら笑いを浮かべたベルガルドだったのだ。
“殿下、今日限りを持って、人間をやめていただきましょう。これからは醜い獣として、残りの人生を楽しんでいただければ幸いですな。”
ベルガルドはそう言って、ずっと見下ろしていた。そして、付け加えるように言った。
“どのような姿になるのか楽しみですな。愛玩用の動物として飼ってさしあげてもよろしいのですが”
しかし、彼が見下ろしていたはずの王子の体は、思いがけずさらにふくれあがっていったのである。
「それじゃあ、宰相が望んで、あなたを竜の姿に変えたわけじゃないのね」
「ベルガルドも驚いていたよ。……そうだな、あのときに食い殺してやっていれば、よかったのかもしれないな」
変わり果てた自分の姿。兵士を呼ぶベルガルド。
エミトリは無我夢中で逃げた。そのときは、ただ恐ろしかったのだ。
自分のものだった部屋の壁を崩し、使い慣れない翼を羽ばたかせて、どうにか空へ逃れたのである。
「命を絶とうととも思ったのだが、やはり父と母のことが心配だった。それに、竜の身となっても、何かできることはあるはずだと考えたのだ」
それからは、民が困るようなことがあれば、それを助けるために竜としての力を発揮するようになった。
山火事が起これば、翼を羽ばたかせ、火をかき消した。川が決壊しそうになれば、土を盛った。猛獣や魔獣が村を襲えば、これを追い払った。
そのほかにも今までしてきたことを、竜はカレリアに話していく。
「それでもうまくいかないこともあったし、誤解されることもあった。それ以前に、私を見たとたんに逃げ出す者がほとんどだった。何しろ言葉が通じないのだから、しかたのないことだが」
「わたしもそうだったものね」
カレリアは答える。きっと、竜は寂しい思いをしていたのだろう、とカレリアは思う。
「あなたのおかげで、私は命を救われたわ。あなたが、竜で良かった」
それは慰めや気休めからの言葉ではない。カレリアには、エミトリが竜になった理由が少しだけわかるような気がした。
たぶん、どんな呪いも、彼の精神までをねじ曲げることはできなかったのだろう。それが竜の姿となって現れたのだ、と。偉大な霊獣の姿となって……
「カレリア。私も、助けたのがそなたで良かったと思う」
つぶやくように言った竜の言葉は、空気を少し震わせただけで、カレリアの耳に届くことはなかった。発した竜自身、届かなくもいいとさえ思っていた。
「そろそろ腹も空いてきただろう。あそこの川へ降りよう。しっかりつかまっておけ」
急降下する竜の背で、半ば悲鳴のような歓声を上げる魔女。
小さな景色がだんだんと大きくなっていった。
穏やかな時間は流れていった。
晴れた日は、一緒に国中を飛び回る。天気の悪い日は、一日の半分を話をして過ごした。
竜は毎日のように見回りに出かけていたが、暇を見つけては王宮での出来事や、竜になってからの話をカレリアに聞かせてくれた。カレリアは魔女としての知識や一人の民としての暮らしを話した。話題はいつまでも尽きることはなかった。
しかし、いつまでも竜の洞窟に隠れ住むわけにはいかない。魔女としての役割を終えるにはまだ早い。
そう考えたカレリアは、ついに竜の住処を出る決意をした。
「そうか、それは寂しくなるな。まだまだ話したいことは山ほどあったのだが」
「心配しないで。また会いにくるから」
カレリアが竜の首に手を回して、頬を寄せる。
「国境近くの村まで送ろうか」
「いいえ、自分の足で行くわ。……別れるのが辛くなるといけないから」
「足場も悪いし、険しい道のりだ。それに、人里に出れば、処刑を逃れた罪人として探し回っている者もいるかもしれない。……十分に気をつけるんだ」
竜がいつまでも心配そうに言う。カレリアはうなずいた。
「ええ、ありがとう。気をつけるわ」
カレリアは竜に別れを告げて、洞窟をあとにした。
ときどき振り返ると、名残惜しそうに竜が見つめている。それも一歩ごとに、確実に小さくなっていく。
やがて竜の姿も、渓谷の景色も、木立の向こうに消えてしまうと、カレリアも寂しさで胸がいっぱいになってしまった。
竜の背から見た、あの景色を思い出しながら歩いていく。
きっと今の自分は豆粒よりも小さな点に過ぎないだろう。それでも、竜は自分のことを忘れないでいてくれると思った。
どこか落ち着く先が決まったら、すぐに会いに行こう。
ともすれば立ち止まり、引き返してしまいそうになる足を、カレリアは動かし続けた。
「どけどけ! 邪魔だ! 道の脇にどくんだ!」
けたたましい怒号と、馬の蹄の音が聞こえる。
ようやくたどり着いた村を歩いていたカレリアが振り返ると、十数人の兵士の一団が描けてくるのが見えた。あたりにいた人たちがあわてて避けて道をあける。
一瞬、自分を捕まえにきたのかと思い、身構えていたが、兵士たちはそのまま通り過ぎていった。
それでも、念のためにどこかへ避難することを決めたカレリアは、近くにあった店に飛び込んだ。
「いらっしゃい」
カレリアが扉を開けると、同時に店の主人の声がする。
そこは食堂のような所だった。他の客はほとんどいない。がらんとしていて、店主もひまそうだ。
「水を頂戴。それから何か食べるものを適当におねがいするわ」
カレリアは、しばらくここで時間をつぶそうと決めた。
厨房の奥から聞こえてくる音を聞くともなしに聞いている。外ではまた、あわただしく駆けていく蹄の音がしていた。
「おまちどうさま」
店の主人が自ら、水と料理を運んでくる。卵を使った料理からは、あたたかい湯気とともに、おいしそうな匂いが立ち上っていた。
カレリアは懐から銀貨を渡した。ここへ来る途中で、占いなどをして稼いだ金だ。
「ねえ、さっき。兵士さんたちが急いで通っていくのを見たけど、なにかあったの?」
釣り銭を受け取りながら、カレリアは店主に尋ねた。
「ああ、何でも魔物退治をするらしいことを言っていたっけな」
それを聞いた瞬間、カレリアは鳥肌が立つのを感じた。何かいやな予感がした。
「魔物?」
聞き返すカレリアに、店主は説明を付け加えた。
「ほら、知らないかな。竜だよ、竜。居場所を突き止めたらしくて、なんでも何組かの討伐隊が向かったって話だ。兵士だけじゃなくて、あちこちから傭兵や賞金稼ぎを……。あ、お客さん!」
最後まで聞くこともできずに、カレリアは思わず飛び出していた。
店の扉を乱暴に開けて、すれ違う人々をかき分けていく。
カレリアは無我夢中に走った。
頭の中からずっと、優しい竜の姿が離れなかった。
息が切れ、心臓もどうにかなってしまいそうなほどに早くなっている。それでもカレリアは走り続けた。
動けなくなれば、少しだけ休み、そしてまた走り出す。
それを何度も何度も繰り返す。
どれほどの時間がたっているのか分からなくなったまま、気がつけばあたりは暗くなっていた。
洞窟のある渓谷が見えてくると、カレリアは一度立ち止まった。
もう歩いているのとそう変わらないほどの速度でしか進めなくなっている。
それでも息を整えただけで、再び地面を蹴っていく。
遠くにはかがり火のような明かりが見えた。いくつもの明かりが列を作るようにして、竜の洞窟に向かっていた。
「エミトリ、お願い、逃げて……。お願い、死なないで……」
カレリアは祈るように、口の中で、頭の中で、繰り返し叫び続けた。そして、走り続けた。
洞窟へとつながる道には、何人もの人間が倒れていた。兵士と思われる者や、流れの戦士のような格好をした者たちだった。まだ息をしている者いたが、ほとんどがぴくりともうごかなかった。
あたりには、なぎ倒された木や、えぐり取られたような地面のあとが見られる。ちぎれた網のようなものも散らばっていた。動きを封じるためだったのだろう。
竜が身を守るために戦ったと思われる場所は、凄まじい光景だった。
血と炎の匂いが充満しているなか、ひとつの匂いにカレリアは気がついた。
それは、彼女の傷に巻かれていた包帯についていた、あの匂いと同じだった。
「エミトリ!」
疲労と、足場の悪さから何度もよろめきながらも、カレリアは急いで洞窟へ向かう。進めば進むほどに、倒れた人間の数と、竜の血の匂いが増していく。
やがて、カレリアは洞窟へたどりついた。
武装した人間は、洞窟の中にまで見られた。しかし、動く者は誰もいなかった。
洞窟の奥へ、多量の血痕が続いている。
「エミトリ、いるの? 返事をして! おねがい……」
進むことに怖くなりながらも、カレリアは血のあとを追う。血のしみは少しずつ大きくなりながら、カレリアが水浴びをしていた場所へ向かっている。
「……カレリアか。もう会いに来てくれたのかな……。それとも、これは夢か……」
全身から何本もの矢を生やし、鮮血を噴き出す竜が、そこにいた。
「エミトリ!」
カレリアが駆け寄る。竜の目に映った姿を見て、カレリアは自分が泣いていることに気がついた。
「カレリア……。私は大勢の人間を殺してしまったよ。まだ人間だった頃に、私を慕ってくれた者もいたというのに……」
竜は、自分の服を裂き、あちこちの傷に巻こうとしている魔女の姿を愛おしそうに見つめながら、弱々しい声で言った。
見た目の傷以上に、竜の心は傷ついているのが、カレリアにも分かっていた。
「不思議なものだ。私の血は、今まで多くの生き物の傷を癒してきたというのに……、自分自身には何の効力もない……」
それは、竜が自身の強い生命力を分け与えていたからだ、とカレリアは知っている。
弱った血では意味がないのだった。
「お願い、死なないで。エミトリ、死なないで」
もはや頭を動かす力もなくなった竜を抱きかかえながら、カレリアは言う。しかし、止まることのない流血の温かさが、命の灯が確実に薄らいでいくことを知らせていた。
「……このような姿になって、おかしな話だが……、私は自分自身を呪ったよ。……だが、最後にカレリアに出会えて良かった。竜としてできることは……まだあったはず……、それだけが残念だ……」
急速に輝きを失っていく竜の瞳に、カレリアは思った。
魔女としてできることがまだあるはず。
カレリアは、ひとつの決意をした。
「エミトリ。あなたの呪いを解くことは、わたしにはできない。でもわたしにも、呪いの魔術は使えるの。それは禁じられた魔法よ。けれど、わたしにはもう他に方法が思いつかない」
カレリアは、エミトリにかけられた呪いの力を探り始めた。
「わたしの体には、あなたの血が残っているわ。あなたの受けた呪いを、わたしにも流し込む。……それが魔女としてのわたしに、最後にできることよ」
竜の体から見えない力が、カレリアの体に伝わってくる。
カレリアは呪いの力を受け取り、増大させ、自分自身に向かって解放した。
やがて、洞窟に骨の音が響き渡った。
その国には二匹の竜が住んでいた。
人々が空を見上げると、大きな翼を広げた竜の姿がそこにはあった。
晴れの日も、雨の日も、いつでも竜はそこにいた。
それはまるで、大空からこの国を見ているかのようだった。
了