「てめぇっ、すかした態度とりやがって…もう我慢できねぇ! 立てっ! ぶった切ってやる!」
こぶしを叩きつける音、椅子の転がる音、それから鞘から剣が抜かれる音が聞こえたのは、ちょうどカウンターで一杯目を飲み終えたときだった。
酒の席のつまらない喧嘩だろう、と振り返ると大柄な男が、ひとりの剣士らしき男に詰め寄っている。
「ふざけんじゃねぇっ。てめぇが何様かしらねぇがな! 戦争が終わってこっち、仕事にもあぶれてむしゃくしゃしてんだ! 何とか言えよ! てめえっ、俺の仕事を横取りしやがって、いい気になってんじゃねぇぜ!」
男の怒号のような言いがかりにも、剣士は動じない。ただ、涼やかに言うだけだった。
「仕官できないのは、お前の能力不足でというだけのことだ。私がどのような仕事につこうが関係はないだろう?」
あまりにも冷たい言いように、男の思考が一瞬だけ停止したようだった。しかしすぐに男の体が震えた。相当、頭に来ているようだった。
抜き身の剣を握りしめた手に力が加わったのが、ここからでもすぐにわかった。
殺気立つ男の様子を見て取った剣士も立ち上がり、腰に手を伸ばす。
武器としての機能を殺さない程度に飾られた剣だ。その装飾は一流の腕によるもののようで、おそらくは業物に違いなかった。
「やるのか? 力ずくで私の仕官の口を奪ってみるか? ……『見えざる剣』と呼ばれた、この私から?」
剣士の口からこぼれた言葉が酒場を駆け巡った。見てみぬふりをしていた客すら思わず振り返る。
私も驚いた。まさか、『見えざる剣』とは。それは先の戦争で、恐ろしく速い剣さばきを武器に成り上がった英傑の名だ。
戦死したという噂が、もはや事実として流れていたが、まさか再び見えることになるとは思わなかった。
『見えざる剣』の名に恐れをなした男が去ったあと、酒場はまたいつもの喧騒を取り戻していた。横目でちらちらと覗き見る者が増えたが、件の剣士は静かに杯を傾けている。
先ほどの男ではないが、私もまた、決まりかけていた口を蹴られていた。私がこの酒場へ来たのは、その憂さを晴らすためだったのである。
戦争が終結してからというもの、まとまった仕事にありつけないでいた。そこへようやく決まりかけていた仕事だった。
私は少なからず、先ほどの男のように、剣士に対しての憤りを感じていた。
雇い主になるはずだった貴族は言っていた。
”そなたのような下賎の者ではない、本物の勇者を見つけたでな。そなたに用はないのだ”と。
酒の勢いがなかったとは言えない。私は剣士のもとへと足を向けていた。
「『見えざる件』殿。つかぬことを伺うが、先ほどの男が言っていた仕官の口、というのは、もしやフィンブレン候家ではありませんか?」
こちらの問いに対して剣士は微笑みながら、その通りだ、と答えた。上品な笑みだ。貴族受けするのも良くわかる。
「度量の狭いことを言うようだが、その口は先に私のものになるはずだった。こちらも食わねばならない身なのだ」
剣士はいぶかしむように聞いていたが察しはいいようで、傍らにおいていた剣を寄せていた。
「どうだろう? ひとつ取り返させてはもらえないだろうか?」
私の提案は、一介の剣士としての心を揺さぶるものであったらしい。決闘の申し込みである。
「なるほど。先ほどの方も同じような用件でしたからね。いいでしょう…ただし」
剣士の言葉が切れると同時に、風が頬をなでた。そして、殺気こそ含んではいなかったが、剣の切っ先が私の喉元を照らしていた。
「……ただし、命の保証はできませんよ?」
店を出ると、物見遊山な酔客たちが我々を取り囲みはじめた。
身勝手な声援を送る者や、賭け事をはじめる者たちもいるようだった。食後の軽い娯楽だとでも思っているのだろうか。
改めて私は剣士と向かい合う。五歩ほどの距離で、互いに剣は抜いてある。
決闘の作法どおりに礼を交わす。
私は再び剣を鞘に収めた。相手が速い剣さばきを武器に掲げるというのなら、こちらもまた、速さには自信がある。
抜刀での早撃ち。相手もこちらの意を察したのか、やはり剣を収めた。
少しずつ間合いを詰める。野次馬たちもいつのまにか固唾を飲んで見守っていた。静かな、それでいて張り詰めたような空気があたりに満ちていく。
「……よければ、あなたが先に抜いてもかまわないが?」
余裕の笑みを浮かべながら剣士が言った。しかし、私は答えない。見えない間合いをはかるだけだ。なめるように距離を詰めていく。
あと二歩といったところで、互いに動きを止めた。
剣士の呼吸が聞こえる。悟られぬように意識しているのだろうが、張りつめられた空気がわずかに揺れている。
ゆっくりと吸い、静かに吐き出す。吸って……吐き…… 吸って……吐き…… 吸って……吐いた、その瞬間だ。
ぎりぎりまで引き絞った弓を放つように、私の右手は剣閃となった。
高い金属音と血しぶきが上がる。
抜かれることのなかった剣、見えない太刀筋を追うように見つめながら、剣士が倒れた。
傷は浅く、急所も外していたが、それでも剣士はうずくまったまま動こうとはしなかった。ただ、信じられないような顔つきで、呆然としていた。
「……約束どおり、返してもらうぞ。士官と、それから……一度捨てた名を」
刃についた血のりを拭いながら、私は言った。腕には懐かしい感覚がいつまでも残っていた。