うらみの滝

 山間にある小さな村。東の外れに一軒の家が建っている。

 乾燥した植物。乳鉢。薬研。古めかしい本や巻物。香油の入った壺。ガラスの瓶……

 乱雑に散らかされた机に向かう、ひとりの少女。

 彼女の名は、コトリ。魔術師の弟子で、朝の手習いとして、師の書を手本に書き取りをしているところである。

 窓から差し込んできた日の光に気がついて、コトリは筆を持つ手を止めた。

 顔を上げると、さきほどまで空を覆っていた雲が切れかかっているのが見える。

 明け方から降り続いていた雨はいつのまにか、鳥のさえずりや、軒先より流れ落ちる水音にかわっていた。

 気分転換を兼ねて、外の空気を取り入れようとコトリは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。

 招き入れられた風が、心地良くさせるような、落ち着かなくなるような、雨上がりの匂いと湿り気を連れて、遠慮がちに部屋を通り抜けていく。

 ちょうどそのとき、部屋の扉が開いて、白く長い髭をたくわえた老年の男があらわれた。

 コトリの師、サンスイである。賢人としても名高く、遠くからも彼の見識を頼って訪れる者も少なくない。

 魔法というものに疎い村の者たちからの信頼も厚い。

「あ、御師様。御師様の空読み、外れちゃいましたね。このまま晴れてきそうですよ」

「うーむ、どうやらそのようじゃな。今日一日は降ると視たんじゃがのう」

 弟子の言葉にサンスイは腕を組み、考え込むような仕草をみせた。

 天候の報せは、村の者たちに頼まれて行ったものだ。もちろん、自然の流れ、天の動向を読むということは、確実なものではない。そのことは、村人たちも納得している。

 しかし、なかにはそうでない者もいた。

「あの生意気な若造が来そうな気配じゃな」

 彼がそう呼ぶのは、この村の領主で、サンスイの空読みが外れると、わざわざ使いをよこしてまで嫌味を並べ立てる人物である。

「暇な奴じゃからな……。あれじゃロクな統治者になれんわ……」

「御師様、また領主様に叱られちゃうんですか? お使いの方がいらっしゃったら、居ないフリしちゃいましょうか」

 机に戻りながらコトリが言うと、老魔法使いは髭を揺らして笑った。

「はっはっは。子供の心配することではないわ。……それより、呪術文字百字の書き取りは終わったのかの?」

 サンスイが弟子の手元をのぞき込む。コトリはあわてて次の新しい紙をめくろうとしている。その仕草はどことなく、こそこそとしていて、さきほどまで書いていた紙を隠そうとしているようにみえる。

「ええっと、もう九四字ですね」

「ほう、あと六字で終わりじゃな」

「……もう九四字で、終わりです」

「なんじゃ、書き終えたのは六字だけか」

 コトリから取り上げた紙束をめくってみると、呪術文字どころか、よくわからないような落書きで埋め尽くされている。

「なんじゃこれは。お前は集中力が足らんのう。こんなことでは立派な魔法使いにはなれんぞ。さ、百字くらいのもの、さっさと済ましてしまうんじゃ」

「はぁい」

 叱責されて、コトリが書き取りの続きをはじめる。

 サンスイは、彼女のかたわらに用意した椅子に腰掛けた。

 複雑なつくりの文字がゆっくりと書き連ねられて、時間は過ぎていく。

 ふと、窓の外を見ると空はすっかりと晴れ、秋らしい澄んだ青が冴え渡っていた。

 コトリの、背中に垂らされた柔らかな髪を揺らすように、くるくると踊る小さな風の精霊たち。まるで外へ連れ出そうとしているようだった。

 気分良く過ごせそうな日だ。領主の小言で埋め尽くすにはもったいない……

 と、サンスイは思う。

「……そうじゃな。良い天気になってきたことじゃし、今日の修行は外でするとしようかのう」

「習字終わっていいんですか? やったー」

「うむ。今は紅葉も見頃じゃて、自然の移ろいを感じるのも修行のひとつじゃ。ほれ、出かける支度をしなさい」

 その言葉が終わらぬうちに、コトリは道具の片付けをはじめていた。

 サンスイは魔法によって下僕たちを呼び出して、次々と命令を出していく。

 弁当を作るために、ゴーレムが台所を駆け回る。炎の精霊がそれを手伝う。異界の悪魔が水を汲みに井戸へ走る。死霊たちが荷物をまとめる。

 やがて、支度を終えたコトリが二階から降りてきた。すっかり外出用の服装に着替えている。

 丸くて広いつばのとんがり帽子。ゆるやかなワンピースは帽子と揃いで真っ黒な生地のものだ。よくみれば、少し色合いの違う黒い糸で、あちこちに呪術文字の刺繍が施されている。履き慣れたサンダル。肩から斜め掛けにした小さなポーチ。手には見習い魔法使いのための、ねじくれた樫の杖。

 コトリが外へ出て待っていると、やがて、サンスイも用意を調えてやってきた。

 弟子と同様、こちらもとんがり帽子にローブという格好であるが、コトリの着るそれとは違い、多色に彩られた見栄えのするものだった。

 手に持つのは、幾何学模様の装飾が施された、正式な魔術師だけに許される特別な杖だ。

 サンスイはゴーレムから、できあがった弁当の包みを受け取り、今度は留守番用に新しい命令を与えていく。

「では、そろそろ出発するとするかの」

「はぁい」

 すべての準備を終えて、コトリとサンスイは、村を横切るように流れる川に沿った道を歩きだす。

 道がゆるやかにのぼりはじめ、大きな曲がりにさしかかったところで、コトリは家の方を振り返った。

 するとちょうど、一台の馬車が家の前で止まるのが見えた。遠目にも造りの豪華さが伺える馬車だ。出迎えるゴーレムの姿も見えている。

「御師様、御師様。危ないところでしたね」

 コトリが師の袖を引っ張りながら、家の方を指さして言った。

「まったくじゃ。相変わらずヒマな奴じゃな。付きあいきれんのう」

 肩をすくめてみせると、サンスイは止めていた足を再び動かしはじめた。コトリも、そのすぐ後ろを付いていく。

 少し歩いただけでやがて、村の景色は木々の間に埋もれてしまった。

「御師様、御師様。今日はどこまで行くんですか?」

「ふむ、そうじゃな。少し足を伸ばして、〈うらみの滝〉へ行こうと思うが、お前はまだ行ったことがないじゃろう」

「うらみの滝……」

 コトリは口の中で繰り返してみる。行ったことも聞いたこともない場所だ。

「なんだか怖そうな名前ですけど……それってやっぱりどこかの女中さんが、そのおうちの旦那さんの大事にしていたお皿か何かを割ってしまって叱られたあげくに、叩かれたりもして、せ……せっけん! せっけんをうけて、つらさのあまりに身を投げた……っていうような滝ですか?

 それで、恨みつらみを伝えようと夜な夜な化けて出て、お皿の数を『いちまぁ~い、にまぁ~い』って……

 御師様、あの、わたしそんなところへ行くのいやですよう」

 想像の翼が大きくはためいて、まだ見ぬ場所へ、一人勝手に旅立ってしまった様子のコトリ。先日、サンスイの書棚から持ち出して読んだ本に書いてあった怪談物語、そのままであった。

「せっけんじゃのうて、折檻じゃ。……まったく、つまらんことにだけは、頭がまわるんじゃのう」

 ため息をひとつつきながらサンスイは言った。

「そのような怪奇な場所ではないわ。紅葉を眺めるのに適した場所のひとつじゃ。知らんのか? わりと有名なんじゃがのう……」

「本当ですかあ? そんなことおっしゃって、あとで怖がらせようとしてるんじゃないでしょうね~」

 ほっとしたような、がっかりしたような、複雑な思いを顔に浮かべて、コトリは翼を折り畳んだ。

「まあ、詳しいことはあとじゃ。楽しみにしておれ。さあさ、歩いた歩いた」

 道は、浅い谷間を縫うように、右に左に川を横切りながら、上流へと遡っていく。

 川の流れも、村で見せていたのとは違う表情で二人がいく道に寄り添っている。岩や倒木が造りだした大小様々な落差に、飛沫を上げて絶え間なく聞かせる水音。穏やかな水面に、にじんで映る山の斜面。

 紅黄の絨毯を敷きつめたように、艶やかに色づいた木々の葉が秋の山模様を織りなしている。

「わぁ、綺麗ですねぇ、御師様」

 景色に見とれて、コトリが思わず声を上げた。

「うむ。これぞ偉大なる自然の魔法じゃな」

 二人は目を楽しませながら進んでいく。

 谷の道は狭く、険しくなっていく。先には木の根が大きくせり出し、大きな岩が転がっており、行く手を遮るような急勾配が続いている。

 コトリは、はじめのうちこそ他愛のない会話を弾ませていたが、だんだんと口数も減っていき、やがて荒い呼吸を繰り返すだけになっていた。

「御師様あ、ちょっと休ませてくださあい、もうだめです~」

 すでに体を半分以上、杖に預けはじめていたコトリが力なく訴える。

 前をみれば、師の影は大きく曲がる道の向こうに埋もれつつある。

「御師様~」

「なんじゃなんじゃ、だらしないのう。ほれ、滝はすぐそこじゃ。もうひと踏ん張りじゃよ」

 弟子にそう呼びかけると立ち止まりもせず、ぷいと道の向こうへ消えるサンスイ。

 コトリは力尽きたように、その場にへたり込んでしまう。しかしそれはつかの間で、彼女はすぐに立ち上がる。

「魔法使っちゃおっと」

 素晴らしい思いつきだと言わんばかりに、にんまりと笑うと、コトリは素早く呪文を口紡いでいく。それと同時に、くるりくるりと舞うように動き回り、杖を振り掲げる。空中に文字を書くように、足の流れで魔法陣を描くように、魔法の儀式が進んでいく。

 土塊からゴーレムを作り出す術だ。見習いとしての実力しかないため、師サンスイのものよりもはるかに下級の、短時間だけの魔法である。

 道ばたの土が、小刻みに振動しながら徐々に盛りあがっていく、その時だった。

「こりゃ、コトリ。つまらぬことに魔法を使うものではないぞ」

 コトリの耳元に、どこからともなくサンスイの声が響いた。びっくりしてあたりを見回すが、師の姿はない。

「お、御師様? ……だって、くたびれたんですもん。ちょっとくらいいいじゃないですかあ」

 コトリが口をとがらせて言うと、見えない手に、とんがり帽子が軽く叩かれた。あわてて頭を押さえてももう遅い。

「よいか、苦労してこそ得られる喜びもあるんじゃ。魔法も使う機というものをわきまえねばならん。いらざるときに用いれば、よくない結果を生み出すもんじゃ」

 厳しい口調のサンスイだったが、いくぶん穏やかさを帯びた言葉があとに続く。

「しかしまぁ、帰りには召喚獣の背に乗せてやろうかの。その代わり、今は自分の足を使うんじゃ。よいな?」

「はぁい」

 見えない師に向かって返事をして、コトリは歩き出す。立ち止まっていたおかげで、少しは休憩になったようで、さきほどよりも足取りは軽い。

 コトリがようやくサンスイに追いつくと、そのすぐ先に滝が見えた。

「あれが、うらみの滝じゃよ」

 そこは、少し開けた場所になっていて、あたり一帯を水音が満たしている。

 流れる水量もその落差も、大きな滝の激しい勢いはない。しかしそれでも、垂れ下がる水の幕は大人が両手を広げて二、三人並べるほどの幅があった。

 そう深くはなさそうな滝壺に、水飛沫が舞い上がり、風に乗って漂っている。

「歩いたせいで身体もほっこり温まっとるわ、ちょうど良いあんばいじゃのう」

 サンスイは、重ねて着ていたローブを一枚外しながら言った。コトリもワンピースの裾を手ではためかせて熱気を追い払う。

「ホントですね、御師様。涼しくて気持ちいいです」

「これ、みっともない真似をするもんじゃないわい」

 たしなめるサンスイの言葉を聞き流しながら、コトリは滝の方へ首を向けた。

 高く上った太陽の日射しを受けて、水面がきらきらと光の波を打っている。絶え間ない滝の水音と重なって、不思議と安らぐような場であると、コトリは感じた。

「あんまり、名前ほど怖そうな雰囲気はありませんねえ。女中さんの幽霊も出てこないし……」

「当たり前じゃ、そのような怪奇な場所ではないと言ったじゃろう」

「それより、御師様。おなかが空きましたよ。お弁当にしませんか?」

 コトリがやや大げさに腹を押さえるような仕草をする。

「いやいや、昼にする前に見せたいものがあるんじゃよ」

 そう言ってサンスイが指さしたのは、滝壺をぐるりと回るように伸びる道だった。

「あそこを通れば滝の裏側に行くことができるんじゃ。そら、足下に気をつけてついてきなさい」

 濡れた岩がつながる道に向かうサンスイを追って、コトリも仕方なくといったようにそれについていく。滝に近づくにつれ、水音は大きくなり、吹きつける風の湿り気も増えているように感じられる。

「どうじゃ、これが裏見、裏から見る滝じゃ」

 もう手を伸ばせばすぐそこに、流れ落ちる水を受け止めることができそうなところに、先ほどの滝がその姿を見せていた。

「あ、恨みじゃなかったんですね」

 コトリにとっては滝を裏側から、それを間近に見るというのもはじめての経験だった。

だがそれ以上に、その景色に心を奪われてしまった。

 流れる水の幕に透けて、今まで歩いてきた山と谷道の風景が見えるのだ。鮮やかに彩られた、さきほどまでの紅葉の景色が、にじみぼやけて、しかし幻想的な色合いを増して映っていた。それは、彼女が今までにみたどのような絵画にも劣らぬ美しさだった。

 うっとりと佇むコトリの横で、大きなくしゃみの音が響いた。

「御師様あ、せっかく気分出してたのにひどいです」

「いやいや、すまんのう。ちと冷えたようじゃ」

 サンスイが、さきほどしまい込んだローブを荷物から取り出すと、それを着ながら、さらにもう一度大きなくしゃみをした。

「御師様!」

「ふうむ。やはり、ここはさっきの場所よりも、ちと風が冷たいようじゃのう」

「御師様、それは当然ですよ。だってわたしたち、滝の裏にいますよ?」

「ふむ……?」

「滝を逆から見てるんですからね。キタから吹く風は、寒いのが当たり前です」。

〈了〉



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