コトリの、背中に垂らされた柔らかな髪を揺らすように、くるくると踊る小さな風の精霊たち。まるで外へ連れ出そうとしているようだった。
気分良く過ごせそうな日だ。領主の小言で埋め尽くすにはもったいない……
と、サンスイは思う。
「……そうじゃな。良い天気になってきたことじゃし、今日の修行は外でするとしようかのう」
「習字終わっていいんですか? やったー」
「うむ。今は紅葉も見頃じゃて、自然の移ろいを感じるのも修行のひとつじゃ。ほれ、出かける支度をしなさい」
その言葉が終わらぬうちに、コトリは道具の片付けをはじめていた。
サンスイは魔法によって下僕たちを呼び出して、次々と命令を出していく。
弁当を作るために、ゴーレムが台所を駆け回る。炎の精霊がそれを手伝う。異界の悪魔が水を汲みに井戸へ走る。死霊たちが荷物をまとめる。
やがて、支度を終えたコトリが二階から降りてきた。すっかり外出用の服装に着替えている。
丸くて広いつばのとんがり帽子。ゆるやかなワンピースは帽子と揃いで真っ黒な生地のものだ。よくみれば、少し色合いの違う黒い糸で、あちこちに呪術文字の刺繍が施されている。履き慣れたサンダル。肩から斜め掛けにした小さなポーチ。手には見習い魔法使いのための、ねじくれた樫の杖。
コトリが外へ出て待っていると、やがて、サンスイも用意を調えてやってきた。
弟子と同様、こちらもとんがり帽子にローブという格好であるが、コトリの着るそれとは違い、多色に彩られた見栄えのするものだった。
手に持つのは、幾何学模様の装飾が施された、正式な魔術師だけに許される特別な杖だ。
サンスイはゴーレムから、できあがった弁当の包みを受け取り、今度は留守番用に新しい命令を与えていく。
「では、そろそろ出発するとするかの」
「はぁい」
すべての準備を終えて、コトリとサンスイは、村を横切るように流れる川に沿った道を歩きだす。
道がゆるやかにのぼりはじめ、大きな曲がりにさしかかったところで、コトリは家の方を振り返った。
するとちょうど、一台の馬車が家の前で止まるのが見えた。遠目にも造りの豪華さが伺える馬車だ。出迎えるゴーレムの姿も見えている。
「御師様、御師様。危ないところでしたね」
コトリが師の袖を引っ張りながら、家の方を指さして言った。
「まったくじゃ。相変わらずヒマな奴じゃな。付きあいきれんのう」
肩をすくめてみせると、サンスイは止めていた足を再び動かしはじめた。コトリも、そのすぐ後ろを付いていく。
少し歩いただけでやがて、村の景色は木々の間に埋もれてしまった。
「御師様、御師様。今日はどこまで行くんですか?」
「ふむ、そうじゃな。少し足を伸ばして、〈うらみの滝〉へ行こうと思うが、お前はまだ行ったことがないじゃろう」
「うらみの滝……」
コトリは口の中で繰り返してみる。行ったことも聞いたこともない場所だ。
「なんだか怖そうな名前ですけど……それってやっぱりどこかの女中さんが、そのおうちの旦那さんの大事にしていたお皿か何かを割ってしまって叱られたあげくに、叩かれたりもして、せ……せっけん! せっけんをうけて、つらさのあまりに身を投げた……っていうような滝ですか?
それで、恨みつらみを伝えようと夜な夜な化けて出て、お皿の数を『いちまぁ~い、にまぁ~い』って……
御師様、あの、わたしそんなところへ行くのいやですよう」
想像の翼が大きくはためいて、まだ見ぬ場所へ一人勝手に旅立ってしまった様子のコトリ。先日、サンスイの書棚から持ち出して読んだ本に書いてあった怪談物語、そのままであった。
「せっけんじゃのうて、折檻じゃ。……まったく、つまらんことにだけは、頭がまわるんじゃのう」
ため息をひとつつきながらサンスイは言った。
「そのような怪奇な場所ではないわ。紅葉を眺めるのに適した場所のひとつじゃ。知らんのか? わりと有名なんじゃがのう……」
「本当ですかあ? そんなことおっしゃって、あとで怖がらせようとしてるんじゃないでしょうね~」
ほっとしたような、がっかりしたような、複雑な思いを顔に浮かべて、コトリは翼を折り畳んだ。
「まあ、詳しいことはあとじゃ。楽しみにしておれ。さあさ、歩いた歩いた」